幸福観

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 30数年前、私が学生生活を過ごしたのは、風呂なし共同トイレの安アパートでした。エアコンなんてもちろんありませんし電話すら持てない時代でした。共同のピンク電話があればまだいい方です。

 学校に行くのは友達と連絡を取るためでもありました。麻雀のメンバー集めは友達のアパートを一軒ずつ訪ね歩くしかありません。いい思い出です。

 今の若者から見たら隔世の感があるでしょうが、これが当時としてはごく平均的な学生の暮らしぶりだったのです。それを不便と思ったこともありません。若者にとって、お金がないことは恥じることではありませんでした。むしろ貧乏は若者の特権とさえ思っていたくらいです。

 そういえば、河口湖の実家に電話が引かれたのは私が小学2~3年生(昭和40年代の初め)のころだったと思います。それまで近隣ではお隣の商売家にあったのが唯一の電話でした。その電話器は、交換手を呼び出すのにクランク型のハンドルをくるくる回すタイプのものでした。

 その頃はテレビもまだカラーテレビが普及する前で、白黒テレビでさえ全家庭に普及してはおらず、プロレス中継の日には近所の人が我が家に集まり、皆で観戦したものでした。

 この、テレビもない、電話もない、冷蔵庫もないという時代から、豊かになっていく過程が所謂高度成長期です。その頃の日本人は余暇や外食を楽しむこともなく、日曜日以外は汗にまみれて働き通しでした。それでも夢にあふれた幸せ感満載の時代だったのです。世の中も生活ぶりも目に見えて進化し、親の代よりも子の代の方が確実に豊かになれると信じて疑いませんでした。

 それから数十年。生活水準は当時とは比べるべくもないほど向上しました。パソコンにスマートフォンが健康で文化的な最低限の装備ですから幸せなものです。

 それなのに、将来に夢を見い出せない若者が増えていると言います。この閉塞感は何なのでしょうか。国の財政はピンチかもしれませんが、それは個人が負っている借金ではないのです。

 物質的な豊かさで幸福度が決まるのなら、アフリカや東南アジアの多くの国の国民は不幸ということになりますが、彼らが不幸だとは聞いたことがありません。日本人の精神世界が貧しくなっているのではないでしょうか。ものごとに対するありがたみや感謝の気持ちが足りなくなっているのかもしれません。

 今朝も何事もなく目覚められたこと、いつも笑顔で迎えてくれる家族がいること、一緒に働いてくれる仲間がいること、そして何よりも仕事があること。些細なことだけれど、そんなお金では手に入らないものに感謝が出来ている人には、閉塞感なんてないのではないでしょうか。