『自己主張』と聞いたとき、あなたは何をイメージするでしょうか。分らず屋が我を通して自分勝手な主張を展開しているイメージが思い浮かんだ方が多いのではないでしょうか。確かに世の中では言った者勝ちという場面はよくあります。
しかし、自己主張は我を通して他者を尊重しないということではありません。自己主張は多くの場合に自己肯定となりますが、自己肯定が他者否定につながることはありません。自己を肯定できない人がどうして他者を肯定できるでしょうか。I am OK & You are OK!なのです。
自己主張は自らの価値観の表明、つまり目に見えない心や思想の表明なのです。自分自身の存在の主張でもありますから、なんでも相手に合わせたり迎合したりする必要などないのです。
先日行われた所内研修でのことです。テーマは自己主張でした。同僚から「飲み会に行くのにお金を貸してほしい」と言われたときあなたはどうしますか?という状況設定のワークがありました。
大半の人は「いま、持ち合わせがないから」と断る、と言いました。「貸してやる」と言う人もいました。わたしは、わが事務所の社員はみんないいやつばかりだなと改めて思いました。「お金がないなら飲みに行くな」と、率直に言えないのです。でも、テーマは自己主張だったのです。あるいは、お金がないと嘘をついてまで断らなくてはならないこちらの気持ちも察してよ、というささやかな自己主張だったのかも知れません。
わたしたちの行動の一つひとつ、身に着けるものの一つひとつ、乗っている自動車、勤めている会社さらには配偶者までもが自らの価値観の表明、つまりそれらはすべて自己主張なのです。自分の価値観に反するものを保有する人などいませんし、価値観に反した言動をする人もいません。
仮に、不本意ながら冷めた夫婦生活を送っている人がいるとしたら、その不本意さをも受け入れていることが自分自身の価値観なのですから、それは不本意ではなくて本人にとってはきっと本意なのです。
東洋的な儒教の精神は自己主張をしない奥ゆかしさを求めるものではありません。わたしは論語の勉強もしていませんが、孔子が主張した価値観が儒教となったのですから、儒教では自己主張をするななどと言っているわけはないはずです。
どんなにいい人であったとしても自己を主張しない人をわたしは尊敬することはできません。正義感や誠実さに欠ける行為をしている人を見ても無反応では困ってしまいます。そのとき何を感じ、語るのかがわたしたちの生き方であり、存在価値なのですから。