太田
はじめまして。先月より新卒入社いたしました、太田と申します。入社して一か月経ち、仕事や生活にも慣れてきましたが、やはり身体的疲労は些か残ります。その解消が、BSで再放送している水戸黄門を観ることです。
私は東野英治郎さんか西村晃さんが演じている水戸黄門が好きです。こう書きますと、よく「史実の水戸光圀は、諸国漫遊等していない。TVは嘘っぱちだ」と仰る方もいらっしゃいますが、私は史実よりもこのフィクションの黄門様が好きですね。
さて、題にもある“昔と今”ですが、私は水戸黄門を通じて昔と現在の価値観がかなり異なっていると感じました。具体的には撮影技術の向上によって、昔良かったものが今では失われている、ということです。
例えば、助さんの殺陣は好例です。里見浩太朗さんが演じている頃は、相手を斬った後の残心が非常に力強く、“いかにも水戸藩士然”と感じます。
逆に現在ですと、容姿に拘り過ぎて殺陣の迫力があまり重視されているように感じません。迫力があって美しかった殺陣の、人が醸し出していた“魅力”が、撮影や音の技術によって消されてしまったということです。何故殺陣を重視するのかと言いますと、これは私見ですが、時代劇の殺陣は歌舞伎からの影響を強く受けていると考えるからです。
つまり、現在はそうした“伝統”を技術革新も相まって、あまり重視されなくなってしまったと、考えるわけです。非常に偏執的かもしれませんが、時代劇は殺陣があってこそだと思います。
上述した内容は、年賀はがきや手紙にも通ずると思います。私の友人も、携帯電話の発達により、年賀はがきは書かず年始の挨拶はメールかラインで済ますようです。
確かにその方が楽ですが、その“挨拶”はただその時のみのものになってしまいます。はがきや手紙は書くことに非常な労力を使いますが、一生“もの”として残りますし、また相手の心にも残ります。かく言う私もそれを信じて、稚拙ながら毛筆ではがきを書きます。また、はがきや手紙を書く際、必ず“挨拶言葉”を用います。
例えば、元旦と元日。前者は一月一日の午前中、後者は午後を意味します。これも書く際、使い方を調べればその意味に触れ、書く楽しみが増えますが、書かなければそうした楽しみもわからず、言葉に内包されている意味すらも知ることはありません。
要は、時代が変わって便利な世になっても、昔から続いた“伝統”を時代の流れで捨ててはいけない、むしろ忘れてはいけないということです。歌舞伎や落語のような“伝統”も古典芸能にとどまらず、現代に迎合しながらも残っています。しかしそれらはしっかりと昔から続く“軸”を維持しています。時代劇も手紙も伝達手段は変わっても、その“本質”は変わってほしくはありませんね。