「この雑務、また自分ですか」と嘆く社員がいます。口に出さずとも態度に表す社員もいます。本当にいいのですかね、それで。
私たちは生きていくためには常にいろいろな仕事を処理していかなくてはなりません。上は総理大臣から下は一般国民に至るまで誰もが仕事の処理をするのです。専業主婦も学生も同じです。仕事の種類が違うだけです。学生にとっての仕事は、学問や体や精神を鍛えることです。一般に優れた人ほど仕事は多く、種類も内容も複雑になるものです。
現役世代で「オレは仕事が少ないんだよ」「出来るなら仕事はしたくない」「責任のない仕事がいい」なんて言った立派な人にあったことがありません。
大石会計の社員は週一回地域清掃をしています。論語の勉強をしています。教育勅語も暗唱しています。これらをしたからといって直接的なメリットなんてありません。仕事ができるようになるわけではありません。
私自身も、毎朝神棚や先祖の遺影に合掌し事務所のトイレ掃除をしています。11泊の瞑想に参加したこともあります。これも仕事とは関係ありません。ある意味これらはすべて修養です。
人間の偉さは、この次から次へとやってくる仕事の処理いかんによって決まると森信三先生は残しています。
さらに森先生は、「その人自身それを雑務と思うが故に雑務となるのであって、もしその人が、それをもって自分の修養の根本義だと考えたならば、下手な座禅などするより、はるかに深い意味を持つ」と続けています。
要するにボランティアや座禅、瞑想、読書などより、仕事そのもので徳が磨かれるということです。正に会社は大人の学校。
私は腹に落ちたのですが、これを若い人に伝えると正月から面倒臭いオヤジと思われますかね。