私は特に信心深いわけではないのですが、年のせいか毎朝神仏に手を合わせるのが習慣になりました。
亡父の遺影には「南無妙法蓮華経」、亡義母には「般若心経」、神棚には「祝詞」をとまったくルールなんてありません。
仏教では四苦八苦と、生きることそのものが苦しみなのだと言います。そうは思いたくないのですがそんな心境になることもなくはありません。
親鸞聖人は『難思(なんし)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度する大船』と言いました。
「難思の弘誓」とは仏教のことで、苦難の多い人生における安心できる大きな船が仏教なのだという意味だそうですが私によく理解できません。ただ、この説法を聞いたときになるほどと気付かされたことがありました。
親鸞聖人は、人生を海に例えて「難度海」と言いました。渡りがたい海、360度が水平線で見渡す限り空と海しか見えない大海原の真ん中におっぽり出されたのが人生です。
海には無風状態でも必ず波があります。仏教では生きる苦しみを四苦八苦と言いますがそれを波に例えたのです。
その大海原で溺れている人は苦しいので何かにつかまりたくなります。そこに丸太や板切れが浮かんでいたら、どうにか助かろうと誰だって丸太をめがけて泳いでつかまえます。
しかし所詮浮いているものは少しのバランスの狂いでくるっとひっくり返ってしまいます。そこで塩水を飲んで却って苦しむことになります。
この丸太に例えられたのが生きる上で頼りに、支えにしているものです。妻子、財産、仕事、資格、趣味、夢、なりたい職業・・・これさえあれば安心とそこをめがけて泳いでどうにかつかまえます。そして失敗してまたひっくり返って別の丸太を探す、これが人生を例えた難度海なのだそうです。
安心できる状態を「大船に乗ったつもり」と言います。大船を仏教に例えたのでしょうが私にはそこはまだ見えない世界です。
家族、お金、仕事もなく病に伏している人には生きる価値がないということはありません。自分を愛し、周りも愛し、怒りや嫉妬に煩わされることなく、与えられた場所で感謝をもって生きることができたらそこは難度海ではない気がします。私などまだまだです。