高村 孝樹
大石会計では、毎月論語教室を開催していますが、その論語の中でどうにも気になる句があります。『正直者』に関する句なのですが、書き下し分は、
葉公、孔子に語りて曰わく、吾(わ)が党に直躬(ちょくきゅう)なる者あり。其の父、羊を攘(ぬす)みて。子これを証す。孔子曰わく、吾が党の直(なお)き者は是れに異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の内に在り。
これを訳すと、葉公が孔子に言いました、「私の村にはとても正直な者がいます。彼の父親が羊を盗んだとき、自らの父親を訴えたのです。」孔子が言いました。「私の村の正直というのはそれとは違います。父は子のために罪を隠し、子は父のために罪を隠します。本当の正直とはその心の中にあるものです。」
私は初めて読んだとき理解できませんでした。犯罪をかばい隠すのが正直?これが道徳規範?皆さんはいかがでしょうか。賛否両論ありそうな内容です。
犯罪を隠しているのに正直?ということに関して、日本語で「正直」というと、嘘偽りの無いこと、というような意味ですが、もう一つ別の意味があるようです。「しょうじき」ではなく「せいちょく」と読み、己の心にまっすぐ、という言葉だそうです。これを知って、ああなるほど、と理解はできました。葉公が言っているのは「しょうじき」、孔子が言っているのは「せいちょく」なのだと。
しかし、やはり犯罪を隠すというのは良くないことではないのでしょうか?道徳規範であるはずの論語なのに何故?と思ってしまいます。この当時の中国は法治国家ではなく「孝」という考えが根本にある儒教の社会で、法治国家である現代の日本人とはやはり文化が違うのでしょうか。しかし現代の日本にも、「証言拒絶権」というものがあったりします。これは自分の親族等が刑事訴追または有罪判決を受ける恐れがあるような場合、証言することを拒むことが出来る権利です。法律でしっかり定められているのです。
神道には『浄明正直』(じょうみょうせいちょく)という言葉があるそうです。神道においてとても重要な考えで、浄・明・正・直の4文字はそのまま神職の階位に使われています。意味は、浄く、明く、正しく、直き誠の心(素直な心)のことで、人間の生まれながらの本性を示すものだそうです。正しく、直く、ならば犯罪を隠すことは正しくないのでは?
そうは言っても、もし自分が当事者になってしまったら果たしてどうなのか・・・。正直ってなんでしょう。正しいことってなんでしょうか。難しいです。