大谷
よく「分別ある大人になりましょう」と聞いたりすることがありますが、一般的にこの意味するところは、物事の善し悪しを判断できる、物事の道理が分かる、ということになります。
ところが仏教ではこの分別という言葉を、良くないことの意味で使います。意識というものはどんな人であれ、主観で支配されています。これまで得た知識や価値観により作り上げられた主観から、物事に執着する思考が生まれ、それがいわゆる煩悩となります。分別をするのはこの主観ですから、どんな判断であれそれが必ず正しいというものは無い、ということです。
もう少し具体的に言えば、綺麗なものを見たときには人は脳でその情報を過去の記憶や価値観と結び付けて“綺麗なもの”と認識します。汚いものを見たときも同様。しかし、どんなものでもそれ自体に綺麗も汚いも無く、人がその主観の中で判断して初めて、綺麗や汚いといった意味が生まれることになるのです。ですからそれを見なかったら、綺麗も汚いも意識に上がってこないというわけです。それ自体は、“ただある”だけなのです。
仏教的にはこのように主観で分別する意識の中では物事の“あるがまま”を見ることは出来ませんから、そもそも分別するなと説くのです。分別するから好き嫌いも生まれ、それがまた物事の真実から遠ざかる要因になるということなのです。
人間は分別をしないと生きていけませんが、しかし時には分別をしない、固執しない、ということに意識を向けてみることが、自分の意識の幅を広げることにつながるのではないかと思います。