「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」……ケネディ元米国大統領に、最も尊敬する日本人と言わしめた上杉鷹山(江戸中期米沢藩主)の名言です。
上杉鷹山は、20万両(現在価値200億円)の借金を抱え、財政の破たんした米沢藩を極端な緊縮財政と焼き物や織物などの産業の特産化によって立て直しました。もっとも、財政再建には時間がかかり財政が立て直ったのは改革から100年後、鷹山の死後のことでした。
この上杉鷹山と財政改革で比べられるのが備中松山藩の山田方谷です。当時の松山藩は表向き5万石ですがその実態は1万9千石に過ぎず、10万両の借金を抱えていました。粉飾をしていたのです。今の貨幣価値にすると、収入20億円の会社が100億円の借金をしている状態です。現在の日本国に比べたらまだましとも言えますが完全なる破たん状態でした。
改革の第一は、債権者である大阪商人に藩財政の内情を洗いざらい話し、借金を10〜50年の長期返済に条件変更してもらいました。棒引きや、踏み倒しなどという考えは微塵もありません。今で言うところのリスケを行ったのです。
家中には質素倹約を命じ、領民からの賄賂や接待を禁じました。しかし節約は即効性のある政策ですが、それだけでは先細りになるばかりです。方谷には、収入を増やさないことには根本解決にならないことが分かっていました。
そこで領内でとれる砂鉄から、当時の人口の8割を占めていた農家を対象にした農具を開発したのです。備中鍬の誕生です。またタバコや茶、高級和紙、菓子などの特産品を開発し「備中ブランド」で売り出しました。それらは藩所有の船で江戸に運び、関東の商人や消費者に直接販売されました。西国の藩は産物を大阪に卸すのが常識でしたが、中間マージンを排除して安価で消費者に直接販売したのです。
また、将来の収入増をもたらすものとして教育改革も行いました。「政で大切なことは、民を慈しみ、育てることである。それは大きな力となる。厳しい節約や倹約だけでは民は委縮してしまう」と言って、藩士以外の領民の教育にも力を注ぎ、優秀者は農民や商人でも藩士に取立てたのでした。 結果、備中松山藩の再建は米沢藩をはるかに上回る早さで、改革着手から8年後には10万両の借金を完済したうえに10万両を蓄財することができたのです。開発、マーケティング、社員教育、現代の企業経営にも通じる考え方です。歴史とはありがたいものです。