私は富士山麓の河口湖で生まれ育ちました。富士山の存在はあまりに当たり前すぎて、その素晴らしさやありがたみを知ったのは山梨を離れて暮らすようになってからです。
知らない人はいないと思いますが、富士山は山梨と静岡の県境にあります。静岡側から見る表富士と山梨側から見る裏富士にはまったく違った趣があります。
静岡側だと雄々しい姿ですがスマートさにやや欠けます。やはり富士山といったら山梨側からに限ります。
とりわけ河口湖から見た富士山は、滑らかに左右対称に裾野が広がり、その女形の富士は真に日本一です。
同じ山梨側でも、山中湖からでは東側に宝永山の出っ張りがありいまひとつです。千円札の裏に描かれた本栖湖からの姿も河口湖には遠く及びません。
と私は言いますが、誰にとってもオラが村の富士山が一番立派なのです。それでいいのだと思いますし、そうあるべきです。
自分の故郷、親、会社、母校、これらを否定する人がいますが、私は好きになれません。これらはどれも自らのアイデンティティの否定につながります。
富士山について、「一度も登らぬバカ、二度登るバカ」と言います。日本一の山に一度も登らないのはバカ者だ。しかし、草花もなく岩と砂礫ばかりの富士山は一度登ったら二度登るほどの山ではないということのようです。
「来て見れば さほどでもなし 富士の山」………立派に見えても、そばに来るとあらばかりが見えるものの例えです。私も心しなくてはいけません。