税理士になったきっかけ

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 大石さんは二代目税理士ですか、とよく聞かれます。父は山梨の河口湖で農業を営んでおりましたから、私は初代の創業税理士ということになります。

 税理士という職業は、中学生のとき父から教えられました。父が三人の息子を前に仕事の話をしてくれたのです。

 父は将来の職業として、高校生の兄に土地家屋調査士、中学生だった次男の私に税理士、当時小学生の三男には司法書士と、それぞれに国家資格を勧めたのです。その時の父は、息子たちに間違いなく三本の矢をイメージしていたのだと思います。

 私は高校卒業後、税理士の受験資格を得るべく大学に進学しました。しかし勉強をするでもなく、何かに打ち込むのでもなく、私の大学生時代は人生で一番テキトーに過ごした反省の時代です。

 3年生も終盤になった時、ふと初志を思い出し簿記学校に通い始めました。日商簿記2級は軽くクリアし、続けて1級の勉強をしました。しかし1級はとても難しく2か月ほどで簡単に心は折れました。その時点で税理士から逃げたのです。

 4年生になって就職するしかなかったので、税理士を諦めた自分自身を納得させるためにも、県内トップ企業だった山梨中央銀行に就職しようと決めました。私にとって、それも高い目標でしたが運よく採用していただけました。同期の中では最低ランクの大学出身でしたからツイていました。

 銀行に入ると財務や税務、法務といった勉強をすることになります。入行3年目に財務の勉強をした時、なぜか興味を惹かれました。学生時代に諦めた簿記をもう一度やり直そうと決心したのがこの時です。

 直ぐにTACの通信講座で税理士の簿記論を申し込みました。通信講座といっても当時はカセットテープです。カセットで数学を勉強するようなものですから、よくやったものです。

 昭和の銀行は、今でいったら完全なるブラック企業でした。毎日帰宅は23~24時です。残業手当なんて1円も出ません。それは当たり前の時代なので不満に思う社員は一人もいませんでした。

 そんな環境の中で、夜中と週末に必死に勉強するのですから、我ながらやる時にはやる奴だなと自画自賛です。しかし、思わぬ敵が身近にいました。

 私が税理士の勉強にのめり込む姿を見て父が怒り出したのです。「お前は、銀行になんの不満があるんだ」と言うのです。

 銀行員生活が嫌だと感じたことは一度もありません。人間関係に恵まれ、行内でもまずまずの評価をいただき充実感のある楽しいものでした。簿記論の勉強も銀行員としての自己啓発のために始めたものです。半年ほど経つと税理士そのものに人生をかけたいと思う気持ちが芽生え出しました。その私の変化を察して父は怒ったのです。

 元はと言えば、父が勧めた税理士の勉強をしているのですから、褒められこそしても怒られる意味が私には分かりませんでした。

 銀行には人事部長に無理を申し上げ入行4年目に退職しました。父には電話一本だけでした。「俺、銀行辞めたから」と。父との関係はもう最悪です。

 河口湖の実家にはいられませんから、埼玉にアパートを借り、1年間の受験浪人です。どうにか1年分の資金の貯えはありました。

 税理士試験は5科目合格することで資格をもらえるのですが、1科目ずつ合格して何年かかってもいいという変わった国家試験です。

 私は銀行員時代のカセット通信講座で1科目、受験浪人時代に3科目、会計事務所に勤めながら1科目と3年で税理士資格を取得できました。1科目の失敗もなく合格できたことは私の小さな自慢です。

 時間たっぷりの学生時代に簿記から簡単に逃げ出した私が、厳しい環境の中でやれたことは大きな自信になりました。人生って、自分自身にスイッチが入るタイミングが訪れるか否かでまったく違うものになると気付きました。

 勉強に限らず、スイッチの入るタイミングは、早ければ早いほどいいのです。それだけ効果の発現する期間が長くなるのですから。

 私の税理士受験に反対していた父も、最終合格の時にはとても喜んでくれました。当時は、どうしてあんなに反対していたのか理解できませんでした。

 後で振り返ると、その頃の私たち三兄弟は、それぞれが国家資格を目指して勉強をしていた時代でした。資格も取れずに、まだ海のものとも山のものとも分からぬ息子たちのうち、地元優良企業に勤めていた私だけが自慢の息子だったのでしょう。その私が銀行を辞めようとしていることに腹が立ったというより、父親として不安になったのだと思います。今は亡き父なので当時の思いは確認できませんが、今は親の立場になった私には分かる気がします。 

 ありがたいことに私たち三兄弟は、それぞれ父が勧めた職業に就きそれなりに奮闘しております。親の導きとは本当に有り難いものです。